昭和五十四年四月二十八日 朝の御理解

御理解第七節

「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」



「信心はせんでもおかげはやってある」。このおかげをおかげと実感するところから、私は信心の真価というか、値打ちという、また、そこの所を分からせる宗教でなければいけないというふうに思うんです。とにかく「今日の私がある」ということ。「今日を迎えさせて頂いた」ということ。もう、そのことがね、心の底から有難い。「今日も目覚ましのおかげを頂きました。」という、そのお礼の言える信心。これならば、もう、それこそ信心せんでも、誰の上にでもおかげを下さってあるおかげで、しかも、これが最高のおかげで、もう、目が覚めると同時に心が生き生きと弾んでくる。「今日、私がここにある」ということ。「今日、目が覚めた」ということ。「今日ある」ということを心の底からお礼の言えるような信心。これが根本だけれども、信心が分からないと、ここが分からないのです、ね。そこん所が、私はあの「信心せんでもおかげはやってある」その、おかげを私共が分かったところから、いうならば「天地日月の心になこと肝要」と仰せられる信心ができてきて、そこに生まれてくるものが、いうならば確固なる、「不動の信念」とでも申しましょうか、ね。信心が確立するということは、そういうことだと思うのですね。
「今日の私がある」それが基礎です。信心の。「今日、目が覚めました」ということに心よりお礼が言えるということですね。その基礎の上にいうなら確立される信心。それは「天地日月の心になること肝要なり」そこんところに徹底していくことにならなきゃならんのです。私は、今日、御神前で「不動の信念とは、不動のものが動くような力」と頂いたのです。不動の信念とはね、もう不動のもの。動かないもの。ま、大きくいうなら「天地が自由になる」というようなもの。いうならば、もう医者が見放した。「もう駄目だ」という、いうなら者が助かるような。もう、どうにも出来ないはずの事情のことが、おかげを頂いて、それこそ、どんなにもつれた問題であろうが、すき櫛をかけたようにすっきりとおかげを頂けると。そういう、おかげの頂ける、私は信心を不動の信念。不動の信念。「もう、私は金光様から動かん」というような意味のものじゃないね。かく信心した、だから生活が出来る、そこに喜びがあり、安心があり、そこに喜びと驚きがあり、安心があり、それこそ、喜びと驚きを感じながらの日々の生活が出来るのですね。

 このたびの選挙がたくさん御取次させて頂いたが、みんな、今度はね、不思議な不思議な働きが起こっておる、おかげを頂いて当選しているのですね。昨日、何人か、もう、今頃、お礼に出てくるんです。けれども、お導きした人が、やっぱり強引に引っ張って来るのでしょうね。知っているから。ここにお願いに来た。例えば、きのう杷木の市川さん、なんかのお礼に出てみえた方なんかは「もう、全然上がるとは思われん」と。「誰もがどう言うたっちゃ。そればってん、さっち私にその選挙事務長してくれと言いますから」ち、言うてお願いに見えたんです。ところが上がったわけなんです。上がったから、それはもう、上がらんとが上がっとるとやけん「お礼ばせにゃでけん」と言うて引っ張って来るわけ。本人は「何か言われたけん来た。」ち、言うごたるふうな、おかげをおかげと実感しきらない。

 昨日、研修の時に申し上げたことでしたけれども、「なんか、おかげをおかげと分からせきらんとね、神様がおかげのやりがいがない、と思いなさらせんじゃろか。といったようなことは考えんがよかよ」と私。そんなのが沢山ありますね。もう、はっきりと御取次をさせて頂いて、おかげと思うても、受けた者がおかげをおかげと思っていない。「これに、本当な信心を分からせなきゃ、神様に対して相済まない」ち、いうことじゃない。も、そういうおかげはさっさと渡しとくがよか、ね。それが比例にもなるのだし、それこそ、桂先生のお言葉を借りると「この世でさっさとおかげを渡してやっておけ」とね。例えば、お礼ができんでも、信心ができんでもね、「この世で払いがでけんなら、あの世までも神様が取りに行ってやる」とおしゃる。取次ぎさせて頂いた者が「はあ、間違えない。神様の働きを受けておるなあ」という、そう思う心が自分の心の中につのり、つのって一つの確信になっていくんです。「神様は、このようなことまでも、おかげを下さる」。昨日は、こういうのがあった。もう、次点じゃった。「それでどうか、この次点の人が当選するように」と言うてお願いに来た。「そげな、あんた無理なことを言うたっちゃ。と言うことはいらん」と私は先生方に言うんですよ。そういう時でも、やはり「不動の信念をもって御取次させて頂け」ち。したら、昨日、電話がかかって来てからお礼が「おかげで当選しました。一人の人がコロッと死になしゃった。当選しちゃった人が。「もう、まるっきし神様が死なせなさったごたるの」と言うたことでしたけれどもね。「この神様は、そりゃ本当に面白か神様ばい」ち言うてから皆、取り次ぎの先生方だけにお話したこと話がございますね。成程、本心の玉を研くものが信心であり、清まることが信心であり、限りなく美しくならせて頂くことが。天地日月の心になること。それが信心なんだけれども、その以前のもの。それこそ、泥棒であろうが、悪人であろうが、おかげを受けられる神様であるということなんです。まず、そういう所から信じていかななきゃならん。分かっていなきゃならないね。

 昨日、矢野先生がここへお届けに来た。もう毎朝こうして御理解を頂くしょ。そして「今日は何節を頂くじゃろうか」と神様にお伺いする。ところが、合うたり、合わんじゃったり。だから、そういう神様からのお知らせ頂いて、的確に頂けるようになったから不動の信念が生まれる、ち、いうことじゃないのです。これは、もう絶対そうです。不動の信念というのは、やっぱり、「我と我心が拝める」ように、「自分という者が信じれれる」ようにね、ならなければ出来るものじゃない。そりゃね、金光教の中でも、そういう、おかげを受けて、御比例が立ったという教会がありますよ。先生はもう大変、表行が、もう、それこそ、人の真似の出来んような、火の行、水の行、もう、それこそあらゆる行をして、そして、人がどんどん助かったという教会があるし、また、そういう宗教も表行一本にしぼるという宗教さえあるくらいですけれども。なら、今の合楽では表行全廃なのですからね。けれども、そういう一つの、人の真似の出来んような修行でもさせて頂くとです、不思議に心の中にもりもりと力が湧いてくることだけは間違えないですね。けれども、表行から生まれてくる、もりもりと生まれる表行というのは、神様は丁度「夕立、雲のようなものだ」と仰せるですね。もう、もりもりとこうやって雲が出るように夕立雲のようなものだと。一雨して、その次になってくるとスッ-ト引いてしまう。そいうい修行をもしスットと止めたり、例えば、人が助からんごとなると、山に籠もる宗教がありますよね。そこの、あのこの頃、亡くなられましたですね、そこの教祖が。話題になったでしょ。善隣会。善隣会なんかが、もう、表行一本です。あらは、もう大変な表行が出来る人達ですけれども、霊力が段々薄くなってくると、また、一月の間、山に籠もりなさらなければでけんです。そして、また、下りて来られるとモリモリするような力がでけてくるね。けれどもね、「これは本当の信心じゃない。」というふうに教祖の神様は喝破しておられるね。そして、「お道の信心の修行は心行一本だ、家業の行だよ」と教えられるわけ。だから、本当に心行、本当に家業の行がです、「天地日月の心」にかのうた、いうなら、心行であり、家業の行というようなことになってこなければでけん。結局、こちらの信心不足が、そんなに合うたり、合わなかったりするのだろうか。と矢野先生が言いますから、そういうことはね、的確に、例えば、「合うようになったからといってたいしたことはなかよ」ち私。これは毎年、福岡場所の相撲の招待を受けます。いつも久富繁雄さんと一緒に参りますけれども。その時には、神様がね、丁度、十両が始まる時間に行ったんです。そしたら、神様がね、そしたら今度は「右が勝ぞ。左が勝ぞ。」と教えて下さるわけ。言う通りでした。それから、十両が終わってしまってから、いよいよ本当な関取が、幕内ですかね。幕内の試合になったら、神様はどっこい、なんぼお伺いしても、教えてくださらんですもん。なお、重ねてお願いさせて頂いたらね、「それが分かったらおもしろない」と神様がおしゃるとですね。「繁雄さん、今度は右が勝ばい。今度は左が勝ばい」と私が言うと、そんとおりなるとですね。だから、そん時のことを繁雄さん、「何か新聞にでも書きましょうか」と言いよんなさったですけれどね。そういうことがあったですね。そうでしょうが。なら、毎日その御理解が何十節、自分が頂いたのが「何十節じゃた」そういう時がね、神ながらに、神ながらに開かせて頂いたら「ここんところを頂いた」そしたら、「やっぱり、おやじの御理解もそうじゃった」という時じゃ、違うでしょうが。そういう神ながらじゃないとつまらん。これは、一時が万事そうです。なら、私共が思い通り、願い通りずっ-と頂いたら、全然、生活というものが私は、もう、面白ない生活と思うですね。私共が難儀と思う、有難いと思う、幸せと思う、その幸せと思う、難儀と思う、その両方があって、本当の信心生活というか、有難い生活、それこそ驚きの生活というのは、そこを、おかげを頂いていかなければ、頂けんのですね。
お互い、信心させて頂いて、いよいよ不動の、いうならば確固たる信心生活。信心の確立を願わなければならんが、その信心の確立というのはね、分かれば分かるほど「今日、我がここにある」ということに対して、心の底から「有難い」と、その「有難い」と思う心が、「朝参りの日」ということになってくるね。そして、有難い教えを頂いて、今日一日のいうならば、それが支えになる。そこには、難儀もありゃ、有難いこともありゃ、有難くないこともあるけれども、その全てのことがね「神愛、神願だと」頂きぬかれれる信心。不動の信念ということが、今、「表行から生まれてくるのはもろい、崩れやすい」ね。ただ、神様から霊能的なことが発達すると色んなお知らせを頂く。お知らせを頂くから不動の信念が生まれるということでは決してない。不動の信念というのは、自分で、自分の心がいつも拝めれる。自分ながら、天地日月の心を踏まえての信心生活が出来ておる。それが、段々密なものになってき、的確になってくればくるほど、生まれるのが私は不動の信念だと思うのですね。自分という者をいい加減にしておって、不動の信念は生まれません。

 昨日、一昨日でしたか、日田の梅山先生が本部から帰って、しばらくお家に帰らせて頂いておったと。帰りますと次から次からいっぱい仕事があるのもですから、見兼ねて、それをやっぱりお手伝いする。して、昨日、一昨日でしたか、帰って参りました。家内が非常に霊徳的な面に、そういう現れがある。いろいろとお知らせを頂く。そのお知らせを頂いとる中に、女編に貝という字が三つ書いてある。そんな字は、実際ないわけなのですけどね。そういうお知らせを頂いている。神様にお伺いさせて頂いたらね、例えば、もう、お道の教師として、取次者としての資格を頂いて帰った。第一信者は家内でなけりゃならん。親でなけりゃならい。子供でなからなきゃならないね。第一の信者に、例えばね、「家のお父さんな、もう、ほんなもう、表面だけでというような、嫁子からも信用されんようなことでは、お道の教師は勤まらんぞ」という御理解でしたね。教祖様もそれを仰っておられるですね。「教祖様の第一の信者は奥様だ」ということです。だから、これはお道の取次者だけのことではないと思うです。合楽に御縁を頂いて、御信心のけいこさせて頂いておる者はですね、女ならば主人に、男ならば家内にね。わあ、とにかく「家のお父さんだけには頭が下がる。信心ちゃこんなに有難いものだ」というなら、第一の信者、信ずるものね。家内から信じられる、主人から信じられる。そういう私は信心が出来なければ、今日でいう、不動の信念というものは生まれてこないと思うね。
皆さん、せっかく信心のけいこさせて頂いとりますから、いうなら、自分に一番、身じかな、手じか人達から本当に「違う」と信じられる信心。そういう信心をです、いうならば、合楽では、合楽理念に、いうわば天地日月の心というね、限りなく美しくなり、限りなく黙って受けて受けて受ぬく、しかも正確なね、いうならば実意な日月の心というものが身に付いてくる。これならば、いうなら、家内、子供でも信じられないはずはない。そこに私共の信心の焦点を置いてです、いくところから不動の信念、動かないはずのものが、動くほどしの力を頂いて、初めて不動の信念だということでございます。どうぞ。